この記事のポイント
- タイの労働者福祉基金(EWF)が2026年10月1日から施行される(1年延期を経て確定)
- 従業員10名以上の民間企業は原則加入義務。ただしプロビデントファンド(PVD)導入企業は免除の可能性あり
- 拠出率は当初0.25%(労使折半)と低水準だが、罰則は重い。今から準備を始めることが重要
2026年10月1日、タイで長年「法律上は存在するが実施されていなかった」制度がついに動き出します。それが**労働者福祉基金(Employee Welfare Fund / EWF、กองทุนสงเคราะห์ลูกจ้าง)**です。拠出率は賃金の0.25%と決して高くありませんが、「知らなかった」では済まされない罰則もあります。本記事では、制度の全体像から自社の対象可否、実務対応チェックリストまで整理します。
1. EWFとは何か — 「26年越しの制度始動」
1998年から眠っていた制度
EWFの法的根拠は、**労働者保護法 B.E. 2541(1998年)にあります。つまり制度の枠組み自体は四半世紀以上前から存在していましたが、政令による具体的な設立がなされないまま放置されてきました。それが2024年11月13日の王室勅令(Royal Decree)**によりようやく正式に設立され、当初は2025年10月1日の施行が予定されていました。
ところが2025年8月26日の閣議で、米国関税の影響・最低賃金引き上げ・地政学的不確実性を理由に施行が1年間延期され、2026年10月1日が正式な施行日となっています。現時点(2026年3月)では再延期の発表はなく、実務的には「2026年10月施行」を前提に準備を進めるべき段階です。
タイの退職積立の「三層構造」
EWFを理解するには、タイの退職関連制度全体の中での位置づけを把握しておく必要があります。
| 制度 | 目的 | 加入 | 拠出率(雇用主) |
|---|---|---|---|
| 社会保険(SSF) | 医療・失業・老齢年金 | 強制(1名以上) | 賃金の5%(上限15,000B) |
| プロビデントファンド(PVD) | 退職積立・運用 | 任意(労使合意) | 3〜15%(企業が設定) |
| 労働者福祉基金(EWF) | 退職時一時金の積立 | 強制(10名以上) | 賃金の0.25%(2026〜) |
EWFは「退職時の一時金積立」を目的とした強制加入型の積立制度です。日本の制度に例えるなら、中小企業退職金共済(中退共)に近いイメージです。日本では退職金制度そのものが法的義務ではありませんが、タイのEWFは一定規模以上の企業に強制される点が異なります。
なお、社会保険(SSF)とEWFは別制度です。SSFに加入済みの企業でも、EWFへの対応は別途必要になります。
2. 対象企業と免除条件 — 「うちは対象か?」
原則:従業員10名以上の民間事業者
EWFの加入義務は、タイ国内で従業員を10名以上雇用するすべての民間事業者に課されます。外資・内資を問わず、日系企業も当然対象です。
重要な免除条件:プロビデントファンド(PVD)導入企業
最も重要な免除条件は、プロビデントファンド法 B.E. 2530(1987年)に基づく適格なPVDを既に設立・維持している事業者です。
PVDとは、雇用主と従業員が共同で掛け金を積み立て、証券会社・資産運用会社が運用する企業年金制度です。拠出率は労使それぞれ賃金の3〜15%の範囲で企業が設定でき、雇用主拠出分は損金算入できるなど税制上のメリットもあります。
「うちはPVDを入れているから大丈夫」と思われる方も多いかもしれませんが、PVDがEWF免除の要件を具体的に満たしているかどうかの確認が不可欠です。免除の具体的な基準(拠出率の最低水準等)については、今後公布される省令で詳細が規定される予定ですので、最新情報のフォローが必要です。
その他の免除対象
- 家事使用人事業
- 非営利団体
- その他、省令で定める業種
日系SMEの典型パターン
| 進出形態 | 従業員規模 | EWF対象可否 |
|---|---|---|
| 製造業(工場) | 100名超が多い | 対象(確実) |
| サービス業(現地法人) | 10名以上 | 対象 |
| 駐在員事務所 | 小規模が多い | 10名未満なら対象外の可能性あり |
| タイ有限会社 | 規模による | 10名以上なら対象 |
駐在員事務所は営業活動が制限されているため小規模なケースが多いですが、従業員数が10名を超えていれば対象となります(詳しくは進出形態シリーズ第2回をご参照ください)。
3. 拠出率と費用シミュレーション
拠出スケジュール
| 期間 | 雇用主 | 従業員 |
|---|---|---|
| 2026年10月1日〜2031年9月30日 | 賃金の0.25% | 賃金の0.25% |
| 2031年10月1日以降 | 賃金の0.50% | 賃金の0.50% |
賃金上限キャップは設定されていません。社会保険(SSF)が月15,000バーツを上限としているのと異なり、EWFは実際の賃金全額に対して拠出率が適用されます。高給の管理職・専門職・日本人駐在員が多い企業では、この点に注意が必要です。
費用シミュレーション
ケース1:従業員50名、平均月給20,000バーツ
- 月次拠出(雇用主):50名 × 20,000B × 0.25% = 2,500バーツ/月
- 年間:30,000バーツ(約13万円)
ケース2:従業員50名、平均月給40,000バーツ
- 月次拠出(雇用主):50名 × 40,000B × 0.25% = 5,000バーツ/月
- 年間:60,000バーツ(約26万円)
(日本円換算は1バーツ≈4.3円で試算。実際の為替レートにより変動します)
拠出額自体は大きな負担ではありませんが、2031年10月以降は0.50%に引き上げられる点と、高賃金従業員が多い企業ほど額が大きくなる点は予算計画に織り込んでおく必要があります。
タイの法定人件費コストの全体像(参考)
| 制度 | 雇用主負担率 | 上限 |
|---|---|---|
| 社会保険(SSF) | 5% | 月15,000B上限 |
| EWF | 0.25%(2026〜) | 上限なし |
| 退職補償金(LPA) | 法定勤続年数に応じた一時金 | — |
日本の厚生年金(18.3%・労使折半)と比べれば、EWFの0.25%は微々たる水準です。しかし、SSF・PVD・退職補償金(解雇補償金)と合算すると、タイの法定人件費コストの全体像が見えてきます(現地法人設立時の人件費計画については進出形態シリーズ第3回もご参照ください)。
4. 実務対応チェックリスト — いつまでに何をすべきか
今すぐ(2026年3〜6月)
- 自社のタイ法人の従業員数を確認(10名以上か)
- 既存のPVDの有無を確認し、EWF免除要件を満たしているか検討する
- PVDを導入していない場合、EWF加入 vs PVD新規設立のどちらが有利か比較検討する
- 人件費への影響を試算し、2026年度・2027年度の予算に反映する
準備期間(2026年7〜9月)
- DLPWへの登録手続(登録方法・ポータルの詳細は今後の省令で公表予定)
- 給与計算システム(Payroll)にEWF天引き項目を追加設定する
- 従業員への制度説明・受益者(死亡時の受取人)指定の案内
- 雇用契約書・就業規則へのEWF関連条項の反映を検討する
施行後(2026年10月〜)
- 毎月給与から0.25%を天引きし、翌月15日までに雇用主負担分と合わせてDLPWに納付
- 従業員リスト・拠出記録を適切に保管(政府監査に対応できるよう)
- 省令の更新・拠出率変更スケジュール(2031年10月〜0.50%)を継続フォロー
注意: EWFの登録手続・届出書式・登録ポータルの詳細は、今後公布される省令で規定される予定です。最新の省令・通達を必ずご確認ください。
5. PVD vs EWF — どちらを選ぶべきか?
EWFへの対応に際して、特にPVDを導入していない企業は「EWFにそのまま加入するか、この機会にPVDを設立するか」を検討する必要があります。
PVDを既に導入している企業
EWFの免除要件を満たしているか確認する作業が主な対応です。免除要件の詳細(拠出率の最低基準等)が省令で明確化され次第、専門家に確認を依頼するのが安全です。
PVDを導入していない企業の選択肢
| EWFに加入 | PVDを新規設立しEWFを免除 | |
|---|---|---|
| コスト | 低い(0.25%) | 高い(最低3%〜) |
| 手続 | 比較的シンプル | 信託会社・資産運用会社との契約が必要 |
| 人材採用・定着 | 効果は限定的 | 福利厚生の充実で採用・離職防止に有利 |
| 税制優遇 | なし | 雇用主拠出分が損金算入可能 |
| 従業員への給付 | 積立金の一時金払戻し | 積立金+運用益(投資信託での運用) |
50名未満の小規模SMEの場合、PVD設立のコストと手続負担を考えると、まずはEWFに加入して最低限の対応を確保し、企業規模が拡大してからPVD設立を検討するという現実的な選択肢も考えられます。
6. よくある質問(Q&A)
Q1. 日本人駐在員も対象ですか?
タイで雇用されている外国人従業員は、原則としてEWFの対象となります。ただし、日本の本社からタイ法人に出向している場合、雇用形態(本社雇用か現地採用か)によって取扱いが異なる可能性があります。個別の出向契約の内容を確認の上、専門家にご相談ください。
Q2. パートタイム従業員も対象ですか?
労働者保護法上の「従業員」に該当すれば対象となります。具体的な定義については、今後公布される省令を確認する必要があります。
Q3. 既にSSF(社会保険)に加入していますが、EWFも別途必要ですか?
はい、SSFとEWFは別制度です。SSFは医療・失業・老齢等のリスクをカバーするもので、EWFは退職時の一時金積立が目的です。EWFの対象企業であれば、SSFへの加入有無にかかわらず、別途EWFへの加入(またはPVDによる免除)が必要です。
Q4. 2026年10月より前に退職した従業員への遡及適用はありますか?
EWF施行前の退職には適用されません。2026年10月1日以降の加入期間に対する積立が対象となります。
Q5. 再延期の可能性はありますか?
現時点では再延期の発表はありません。ただし、2025年に1年間延期された前例があるため、経済状況次第でゼロとは言い切れません。実務的には「2026年10月施行」を前提に準備を進め、変更があった場合に対応するというアプローチをお勧めします。
7. まとめ — 半年後に慌てないために
EWFの拠出率(0.25%)は、日本の社会保険料と比べれば非常に低水準です。しかし「低いから後回しでいい」と考えるのは禁物です。
- 未払い拠出金への延滞金:月5%(年率換算で60%)
- 対象従業員の登録不履行:最大懲役6ヶ月または罰金10,000バーツ
これらの罰則は、「知らなかった」では通用しません。
今必要なのは、①自社が対象かどうかの確認、②PVDの有無と免除可否の確認、③省令の詳細が公表され次第の速やかな登録準備、の3ステップです。
タイの福利厚生制度全体(SSF・EWF・PVD・解雇補償金)の設計についてご不明な点があれば、お気軽にお問い合わせください。当事務所では、提携先JTJBのタイ人弁護士と連携し、日本語でのサポートを提供しています。
本記事はタイの法制度に関する一般的な情報提供を目的としており、タイ法に基づく法的助言を構成するものではありません。具体的な案件については、タイの弁護士資格を有する専門家にご相談ください。当事務所では提携先JTJBのタイ人弁護士と連携して対応いたします。
本記事は2026年3月時点の公開情報に基づく一般的な情報提供であり、個別の法的助言を構成するものではありません。具体的な案件については、必ず専門家にご相談ください。